モウコハン。

   

くも膜下出血 - すべてのはじまり

はじまりは十数年前…私が中学卒業を間近に控えた頃のこと。
母が肘の痛みを訴え町立病院で検査したところ、ヤブ医者が「肘の骨が出っ張っているのが原因だ」誤診し、削らなくてもいい肘の骨を削った。


誤診なので当然、痛みはおさまらなかったが、母はすぐに仕事復帰した。その数ヶ月後…私は高校1年。

入院・退院

ある夜、母の会社の上司が私の家へやってきた。いつもなら母はまだ働いている時間だった。

「お母さんが倒れて入院した。 明日、一緒に病院へ行こう!今夜は一人で過ごしなさい。明日の朝、迎えに来るから」

翌日、私は上司の車に乗せられてJ大学病院へ。母は普通に歩いていた。母と二人で診察室に入り、CT画像を見せられながら説明を受けたのを覚えている。 その白黒画像の中に2ヵ所、コブのような形に膨らんでいる白い部分があって、そこが脳動脈瘤だと言われた記憶もある。あの肘の痛みの、本当の原因はコレだった。

幸い、脳動脈瘤はまだ破裂していない状態で発見されたので、「早めに手術したほうがいい」ということで、その翌日か翌々日あたりに手術することになり、当日は東京の叔父・叔母や従姉も来てくれて、病院近くの旅館で母の手術終了を待っていた。

あのとき私はどんなふうに思っていたのだろう?自分でもよくわからない。ただ、私には父親がなく一人っ子。つまり我が家は母一人・子一人の母子家庭だったので、もしかしたら一人ぼっちになってしまうかもしれない…という漠然とした不安はあったと思う。15歳の私には、それ以上のことを考える余裕も頭もなかったのかな…。 それ以前に、私はどうしてこんな親の元に生まれてしまったのかと、いつまでも親になりきれない自分勝手な母への憎しみが大きく、母への愛情も無いまま。幼い頃から何でも自分でやらなければ生活できないという過酷な環境を生きてきたから、母への依存心も無かった。 自分がまだ未成年で誰かに養育してもらわなければ困るという現実問題はあるけれど、母がもし死んでしまったって悲しいとか寂しいなどとは思わなかっただろう。

手術中、脳が痙攣を起こし、慌てて頭蓋骨を戻すというハプニングがあったものの、一応手術は成功。母は医師も驚く回復力をみせた。たしか1ヶ月足らずで退院したような記憶がある。

もちろんその間、私は一人暮らし。家事一切を自分ひとりで行い、学校にもちゃんと通っていた。でも、その間の自分の生活が特に大変だったとか辛かったという記憶はない。母が居ても居なくても、どうせゴハン作るのは自分だし、食べるのも一人だし、寝るときも一人…それまでとさほど変わらない生活だった。孤独には慣れているから、寂しいとも思わなかった。

退院して1ヶ月ほど休職した後、母はまた職場復帰した。それからは定期的に通院し、薬を飲む日々。でも母は元気に働いていた。



強制辞退 - 叶わなかった進学の夢

それから2年半後…私は高校卒業を迎えた。

せっかく進学した地域一番の進学校。でも毎日家事全般をこなしながらの生活に疲れ果て、高校ではあまり成績が良くなかった。当然のように塾になど行かせてもらえなかったけれど自力で勉強し、なんとか第2志望の大学に合格していた。ところが、入学手続の期限が近づいてから母は突然「お金がない」と言いだした。

「入学金が払えないから諦めて」

アッサリと言われてしまう。

どうにかしてほしい!!と懇願すると、母は「できるだけのことはやってみる」と言った。

そして迎えた入学手続の期限最終日。私は、どうにかお金が用意できることを信じ、入学手続に必要な書類を握り締め、ひとりで東京へ向かった。

あの日のことは今でもハッキリと覚えている。

携帯などなかった当時、東京駅の八重洲中央口の改札を出たところに並んでいた緑色の公衆電話…
そのすぐ目の前にあるテレホンカードの販売機…
人混み…
残酷なまでに刻々と進んでいく時間…

自分の服装まで鮮明に記憶している。

私は10分おきに母に電話をし、「まだお金用意できない?」 何十回も電話した。テレホンカードを何枚も買っては使い果たした。

母は「定期預金を引き出すのに時間がかかる」とか「上司にお金を借りられるように交渉しているところだ」などと言っていた。

何度も何度も電話して、そのたびに「まだダメだね」と言われて落胆し、それでも望みを捨てずに待って、また電話することの繰り返し…。7時間くらい、そこにいた。

結局、締め切りである夕方5時になってもお金は用意できず、私は悔し涙を流しながら電車とバスを乗り継いで田舎へ帰った。

でも、それは母の大芝居だったのだ。

絶望感

私は「浪人して第1志望の大学に入る」と宣言、母も一度はそれを了承していた。ところが卒業式を終えた数日後、私はまた母の上司に連れられて、隣町の喫茶店へ。

彼の話はこうだった。

J大学病院の担当医から手紙が来た。その手紙の内容は”手術から間もなく3年が経つこの時期が一番再発しやすい。今はいろんな悩み事や不安は全て解消しなければならない”というものだった。
   ↓
母の悩みの種といえば私
   ↓
私が1年でも早く就職し、自分の力で生きていけるようになることが、母のためには一番重要なことだ。
   ↓
だから4年制大学は諦めろ。短大でも県内にしろ。浪人もするな。
   ↓
自分は某短大にコネがある。これからそこの最終試験を受験して入学して教職をとり、卒業したら小学校の先生になれ。(教職で一定期間働くと奨学金返還が免除されるから)

母があのとき最初から入学金を用意する気なんか無かったことを、ようやくここで思い知る。

期待と不安に身を震わせながら涙をこらえて待ち続けた長い時間、あのときの想いは、全部無駄だったんだ…。まんまと騙されていた自分が情けなくもあり、もう何も信じられない、将来の夢を追うことさえも許されないという絶望感で、ただただ愕然とする18歳。

上司はなんとか私を説得しようと時間をかけて粘っていたが、私はもう言葉も出ないほどのショックで、何の返事もできなかった。

母とのバトル

こんな話に私は頷けるワケがない。だって、その某短大は偏差値最低レベル。バカが行く学校として有名なところだった。そして、私の将来の夢とはかけ離れた学部。私の夢は小学校の先生じゃない、司法書士だった。なんでそんな興味もないところに入らなきゃいけないの!?

誰もいない家に帰り、私はひとり泣き崩れていた。

数時間後、母が帰ってきた。この日は仕事が休みだったので、きっと上司と話していたに違いない。上司を使って私を説得する作戦だったのだ。

母「…そうしてくれる?」
私「絶対にイヤ!!!!!」

大喧嘩。私は悔しくて悔しくて、ひたすら泣いた。涙が枯れそうなほど泣いた。食事も取らず、お風呂にも入らず、眠れもせず、そのまま泣きながら朝を迎えた。


忘れ得ない屈辱と悲しみ

翌日、母はさっそく強引に私を高校へ連れて行き、元担任に書類を用意してもらっていた。私は泣き腫らした顔で廊下に立って待たされる。進学先の決まった同級生たちが通りかかり、私に気づいて声を掛けてくる。

志望の大学に落ちて大手予備校に行くことが決まった友達
私立大学に合格し、当然のように入学手続を済ませた友達

今とは違い、大学受験戦争が激しかった頃。選ばなくても、お金があっても、現役での大学進学のハードルは高かった。そんな中で、田舎とはいえ地区一番の進学校だったため、当たり前のように”進路=大学”という感覚をもった同級生たちだ。

「どうしたの?その顔…」
「大学決まった?どこ受かったんだっけ?」

私は何も答えることができず、逃げるようにその場を離れるしかなかった。

それから母は私を写真館へ連れて行き、泣き腫らした悲惨な顔で証明写真を撮らせて某短大の願書に貼り付け、ひとりで勝手に出願しに行ってしまった。証明写真さえ撮ってしまえばもうこっちのもんだ!とでもいうような態度に、ハラワタが煮えくり返る思いだった。

そして数日後の試験前日にムリヤリ私を受験会場近くまで連れて行き、ホテルをとって宿泊。”首に縄”とは、まさにこのことだ。

母が爆睡するその横で、私は窓の外を眺めて泣くことしかできなかった。そのとき涙に霞んでいた夜景も、忘れ得ないものになった。
そう…あれは東海道新幹線の停まる駅の前にあるホテルだった。今でも時々、新幹線を見ると、あのときの想いがフラッシュバックする。走り去っていくあの新幹線に飛び乗って、私もどこか遠くへ行ってしまいたい。ここから逃げたい!誰か助けて!!

翌日、試験会場まで強引に連れて行かれ、ムリヤリ試験を受けさせられた。

母は言う。「受ければ絶対に合格するから。大丈夫だから。」

受けたくもない試験を強引に受けさせられるというのに「大丈夫」もクソもあるか。私はこんな学校には入りたくないんだ!望んでないんだ!!

試験は英語だけ。試験問題を見て笑ってしまった。中学1年でも全問正解できるだろうと思えるような簡単な問題ばかり。英語が大得意でテストというテストはみんな満点、完全無欠状態の私に、これを受けろと…?

悔しくて、情けなくて、またまた涙が溢れた。試験を受けながら泣いた。あんなに一生懸命に勉強したのに…こんなに得意なのに!!

そして私は、めまいがするほど簡単なこの問題をわざと全問間違えて回答した。0点にしてやった!
それが私にできる、唯一にして精一杯の抵抗だった。

数日後、合格通知が届いた。
やるせなさに、胸が引きちぎられる思いだった。



入学と退学

抵抗に抵抗を重ねたものの、結局私はその短大に入学することになってしまった。実家を出て一人暮らしの始まり。

アパートを借りるとき、母から「これからは最低限の生活をしなさい」などと言われてまた怒りがこみ上げたことも、今でもハッキリと覚えている。これもきっと一生忘れないだろう。実家の億単位の財産を湯水の如く使い果たしたクズ人間に、ナゼそんなことを言われなきゃならないのか…!

入学してみると、頭は悪くても素直で明るく楽しく、心の優しい子がたくさんいた。幸い、友達には恵まれて楽しかったけれど、学校へ行って授業を受ける気にはなれなかった。それでも最初のうちは、学校を休むということの罪悪感が嫌で通学していた。
…1ヶ月 もたなかった。

レベルの低い大学は講義もテキストもレベルが低い。受けてもぜんぜん楽しくないし、身にならない。

そのうち私は、独学で大学受験の勉強をするようになっていた。母には内緒で 来年また大学を受験しようと思い、家庭教師とケーキ屋さんのバイトを掛け持ちしながら、ひたすら勉強した。

新しい参考書を買うお金はない。もちろん予備校にも行けない。高校時代に使っていた教科書と参考書だけが頼り。バイト代で全国模試を受けた。短大へは、ほとんど行かなくなっていた。

夏になり、私は思い切って母に電話して、今の自分のこと・これからのことを話してみた。

学校へはほとんど行かずに家で受験勉強をしている。
来年また大学を受けようと思っている。

もし第一志望の大学に合格できたら、今度こそ入学させてほしい!
そのためならバイトも目いっぱいするし、また奨学金を借りて将来自分で返済する!
短大はもう退学させてほしい。

いくら母が望んでも、私はもう行く気になれない。授業料を払うだけ もったいない。もうこれ以上は無理だ!
…必死に訴えた。

その頃の母は体調が良く病気の再発への不安も薄くなっていたせいか、ようやく諦め、退学することを認めてくれた。私はすぐに退学届を出した。短大の友達にも事情を話した。彼女たちは私に温かい声援を送ってくれた。その気持ちが本当に有難く、頑張ろう!という気が増した。

…とはいえ、少ない仕送りだけでは生活できず、掛け持ちでバイトをしながらの独学浪人生活は過酷だった。

高校時代に仲の良かった友達は有名予備校に入り、親の仕送りで自由に遊び、模試も受け放題、テキストも買いたい放題で、バイトなんかしなくてもユトリのある生活を送っている。…羨ましかった。

環境のせいにしてはイケナイ! 私は自分のために努力するしかない!
そう思うようにして頑張ったけど、現実は厳しく、滑り止めなしで唯一受験した難関大学には、合格できなかった。


悔いはなし

もしあのとき、J大学病院の医師から手紙が来ていなければ、私は現役で受かったあの大学へ行っていたのだろうか?いや、そもそもそれ自体が全くの作り話だった可能性のほうが大きいと思う。

日々数えきれないほどの患者たちを診ている大学病院の勤務医が、3年前のくも膜下出血患者のことをイチイチ覚えているのか?もし記憶の片隅に残っていたとしても、わざわざそんな手紙を書くほど暇じゃないだろう。あれは母と上司の作り話だったのだろうな…

母は私の進学や将来の夢などどうでもよかったんだ。自らが勉強嫌いで、資産家だった親の財産を悔い潰し、先を考えず好き勝手に生きてきて、いざ娘の進学時期になって初めてヤバイ!お金がない!と慌てたのだろう。私の夢や努力が、母にとっては迷惑で邪魔なものだったのだろう。

小学校さえマトモに行かず、親に全力で支援してもらってやっと中卒。免許が欲しいと教習所へ通い始めても数日で逃げ出してしまい、今の価値に換算すれば億単位のお金を親に出してもらって喫茶店経営だのマンションだのと庶民には考えられないようなものを無条件に与えられアッという間に潰てしまったような人間に、私の気持ちは理解不能なのだろうな。

そんなことには気付くハズもない少女だった私の、あの地道な努力はいったい何だったのか…悔しくてたまらない。

でも私に後悔はない。その時 その時、できるだけのことはしてきた。それでもダメなものは、どうにもならないんだから…私の能力不足、努力不足!

何より、今の自分が存在するのは 過去の全てがあるからだ。その1つでも欠けていたら、今ここにいる我が子たちとも会えなかった。だからこれで良かったんだ!と思うようにしている。

親に捨てられて施設で育ったり、親戚中をたらい回しにされたり、虐待されたり、殺されたり…ということが無かったのだから、私はこれでもマシほうだったのかもしれないなぁ…なんて思うこともある。上も下も、見たらキリがない。

一番大切なことは、自分自身がどう生きるか。努力だけではどうにもならないことが沢山ある。不可抗力だらけ。これが現実。でも、ただ必死に生きてきた”精一杯”の連続が、いつの間にか、自分の生きる力になっている。無駄な経験など、ひとつもない。

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親が病気になったとき
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