モウコハン。

   

くも膜下出血 - 同居

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他に選択肢がなかったため仕方なく同居し始めたものの、やはり私は母を許すことができない。母とは食事のときに会うくらいで、ほとんど顔を合わせないし、話もしない。子供の世話や家事などを手伝ってもらったりすることも、一切ない。

傍から見れば異様だけれど、そうでないと私自身がダメになってしまう気がするし、もともと何でも自分でテキパキこなしてしまうタイプだから母の手を借りる必要性も感じない。それに何より、私の心の中は母に対する嫌悪感と怒りでいっぱいになっている。

辛かった子供時代

私は子供の頃から母と一緒に過ごした記憶がほとんどない。

生まれてすぐにベビーシッターに預けられ、少し大きくなったら保育所、その次は幼稚園と託児所の往復生活。小学校入学と同時にアパートで孤独な留守番の日々がはじまり、高校卒業まで12年間ずっと一人ぼっちだった。

毎日、電気のついていない真っ暗な家に帰り 自分でゴハンを作って一人で食べ、幼い頃は怖かったので電気をつけたまま昔話のテープを聞きながら寝ていた。お風呂は給湯器がなく火を使って沸かさなければならなかったので、数日おきに隣のお宅のお風呂に入れてもらっていた。

母と会うのは、朝の短い時間だけだった。たまの休日も私が学校から帰ると母はパチンコに出掛けて留守。晩ご飯など作ってもらった記憶もほとんどない。母に「おかえり」と言ってもらった記憶もほとんどない。

今でも鮮明に覚えているのは

3歳くらいの頃、東京の下町で風呂なしアパートに住んでいて、よく銭湯に通っていたこと…
その当時の家賃が月3500円で、それが支払えず何ヶ月も滞納していたこと…
よく質屋まで長い距離を歩いて連れて行かれたこと…
それでも母はタバコを吸い、毎晩 瓶ビールを飲んでいて、私はその瓶ビールを買いに一人で商店街へ「おつかい」に行かされ、大瓶5本くらいだったので重すぎて落としてしまい、瓶が割れてビールまみれになりながらも必死で袋を引きずって帰ったこと…
母が男の人に騙されて各地の安い宿を点々と旅してまわり、何ヶ月も連れ回されたこと…

でも、皮肉にもこの放浪生活の間だけが唯一『母と一緒に過ごした』と思える時間だ。

そして

そんな先の見えない生活のせいで幼稚園は途中入園になったうえに、ちゃんと卒園させてもらえなかったこと…
小学校1年生のときに包丁で手を切って血だらけになり 隣の家の人に助けてもらったこと…
私がとても大切にしていたキャンディキャンディのハンカチを母が勝手に近所の子供に全部あげてしまい、一人で泣きながら取り返しに行ったこと…
一人で家にいるとき、よく虫が出て怖くて何もできずに何時間もベッド上で泣きながら震えていたこと…
なかなか切ってもらえない前髪が顎まで伸びて垂れ下がり、学校の先生に注意されたこと…
母の借金関係の事情により突然転校させられ、イジメられたこと…

本当に、ロクな思い出がない。
いま思い出しても涙が出てくるほど、本当に寂しくて苦しくて、劣等感に満ちた辛い幼少時代だった。

でも、よく考えれば、当時3歳の私でもそういうことを鮮明に覚えていて大人になった今でも忘れられないのだから…今、こうして親になった私が我が子を育てていくうえでやってはイケナイこと・なってはイケナイ親像の見本として、育児書からは決して学べない学習にはなった。どんな経験も無駄にはしたくない。

母とは性格も合わなくて、たまに会話すれば喧嘩になることが多かった。
私が幼い頃から一人で頑張ってきた姿も、寂しさと劣等感に泣きながら耐えてきた姿も、ちゃんと見てくれなかった母が、たまに会えばほんの些細なことで私を叱ったりする。自分の仕事や上手くいかない人間関係のストレスを理不尽に私にぶつけてくることもあった。

私のことなんかぜんぜん見てないくせに…
ぜんぜん何もわかってないくせに…
偉そうなことを言うな!!!
という母への反抗心と虚しさだけが私の心の中に蓄積されていった。

負けず嫌いな私は、こんなロクでもない親に文句を言われるのが悔しくてたまらなかったので、その要因を作らないように家事も勉強も部活も人間関係も、全てにおいて全力で頑張って努力することで母に対抗してきた。このクソ親に文句は言わせない!

…ずっとこんなふうに生きてきて、今になって急に毎日一緒にいる生活になっても、ずっと顔をつき合わせていられるワケがない。同じ場所にいること自体が不自然で、言い方は悪いが正直ウザイ。

こんな私は冷たい人間だろうか?
でも、今さら普通の親子関係を取り戻そうとしても、もう無理だし、私自身がそれを望んでいない。

今、私が母に望むこと… それは
これから先、残りの人生すべてをかけて伯父さんに償ってほしい。それだけ。




最後くらい…

子供の頃から風来坊だったという母は、大人になっても馬鹿なことばかりしていたらしく、定職にも就かず遊びまくって、大金持ちだった実家の財産を食い潰した挙句に、何処の誰だか分からない男との間にできた私を結婚もせずに産んだ。その後も先のことを考えず浪費に励み、赤の他人に多額の金を貸して逃げられたり、男に騙されたり、苦しくなるとスグに実母や実兄にお金を無心してまた浪費する…の繰り返し。そんな一時凌ぎを繰り返しながら生きてきた。そのたびに、私は母に振り回されてきた。

そのうえこの歳になって親の尻拭いをさせられ、せっかくこの手で掴んだ平穏な生活を掻き乱され、きっとこれから先も負担をかけられるというのに…

母から私に対する贖罪の言葉は無いに等しい。たった一言「ごめん」と言えないのか?

それどころか、私がこれまでのことで母を責めたとき、母は泣きながらこう言った。

「死んでお詫びしたくたって、それもできないじゃない!!」

半ば逆ギレ!!「死んでお詫び」とか、そういう同情を買うための言葉を安易に使うことでまず逃げようとする姑息な母の常套句だ!「お詫び」する気持ちなんか微塵も無いくせに、安っぽい涙を流して自分だけは許されようとする。母のそういう逃げ方が私は大嫌いだ!



私は母にこう言った。
「借金だけ残して死なれてたまるか!長生きして年金で伯父さんにお金を返すんだよ!アンタの人生はもう終わったんだ。これからは伯父さんに償うための余生だ!」

でも母は、伯父さんにお金を返す気なんかサラサラ無い。実兄である伯父さんが自分を助けてくれるのは当然だと思っている。恩も感じていないし悪かったとも思っていない。「恩返しをする」とか「償う」など、言葉だけ。

今は私が全てを握り、母には1円も渡さず、母の年金から私が勝手に伯父さんへ返金している状態なので、母は仕方なくそれに従っているだけ。もし母に支給される年金をそのまま母に渡したりしたら、伯父さんに返すどころか、また浪費に走ることは目に見えている。

事実、私が伯父さんに月5万円ずつ送金し始めた頃、母は私にこう言った。
「5万ずつじゃなくて3万にして、残りの2万を私に…」

母はそういう人間だ。何をおいても自分が最優先!我が親ながらホトホト呆れる。
もちろん、そんな馬鹿げた話は私の一喝で終了したが、母のその一言によって、私の中の母への嫌悪感と、なんとも表現し難い悔しさが更に増して…。

それでも結果的に母は借金苦から一気に解放され、何処かで野垂れ死にしていてもおかしくないような生き方をしてきたのに 今こうして仕事もせずマトモな家に住み、自分の部屋を与えられ、3食・昼寝つきの生活をしている。

これ以上、何を望むというのか?

母がこんな大病をしたのは自業自得だ。一度やって懲りているハズなのに、高血圧を自覚しながら酒は毎晩欠かさず飲みたいだけ飲み、タバコも吸いたい放題吸い続けてきたのだから…
相変わらず先のことを考えずにお金はあるだけ使い切り、借りられるだけ借り、親族にも迷惑をかけ続け、それでも尚、いいかげんな生き方をしてきた。

周囲の誰も気づかないうちに どんどん膨らんでいた借金…
病気が母の借金増加を止めてくれたのだ!まったく、病気様様である。生存率3割といわれる病気で命をとりとめたのは、伯父さんに償うという責任があるから。そして奇跡的に後遺症が残らなかったのは、私のため。決して母自身のためではない!

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親が病気になったとき
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